滝沢カレンも言っていた「味見」しながら料理する楽しさとは。

「食」と五感

今朝もニュースで滝沢カレンの著書『カレンの台所』が取り上げられていました。1週間で発行部数が3万部を超えているらしい。すごいな…

そんな彼女も言っていた「味見」という行為について掘り下げてみようと思います。

具体的な分量や時間がない、「超感覚」と表現される彼女の料理本はなぜ人気なのか。

「料理は超感覚派」の私が思う、レシピのない料理の楽しさとは。


私も、もともと滝沢カレンの料理に関する投稿が大好きでフォローしていましたが、本当に読み応えあるんですよね。

料理自体がとってもとっても美味しそうで(そして多分美味しい)、中身が面白いのももちろんなんだけど、なにより、文章量に毎回感動。

ものすごい長文ですよね。
あれ打つのに、どれくらい時間かけているんだろう。(そこ?)

滝沢カレンが伝えたいことって何だろう

今朝のニュースってのは、スッキリのことなんですが、本の紹介とともに、滝沢カレン本人がリモートにて登場。

いろんな受け答えをするなかで、朝からめちゃくちゃ心に響いて、めちゃくちゃ共感した言葉があって、いてもたってもいられず、こうやって書き残すことにしました。

細かい表現は忘れちゃったけど、内容はこんな感じ。

「別に毎回同じ味に作らなくてもいい」
「疲れた時はがっつり食べたいし、軽く済ませたい時もある」

MCの加藤浩次が「夏なら汗をかくし、いつもよりちょっと塩足した方が美味しいとかあるもんね」とコメントすると、「そうそう」とうなずくんだけど、そのあとに

「たとえ冬でも(いつでも)、昨日と味を同じにする必要はない」

とね、まあニュアンス的にはこういうことを言っていたんです。

で、最後に言った言葉。

味見をすることも楽しんでほしい

もう、テレビの前で「そうそうそうそうso!so!soso!!!!!!!!」って大はしゃぎ!!

カレンの台所』って、その個性的な文章が注目されているけれど、彼女の料理に対するこの考え方が1番大切だと思うんです。

もう、大好きすぎる!!ありがとう!!!もう!!嬉しい!!

生粋の超感覚派

こんなに興奮しているのも、私がそもそも「感覚」で料理してきたタイプだから。

味付けするのに計量したことない。そもそも計量が嫌い。笑

もともと大ざっぱだし、計量すると、その計量したヤツを洗わなきゃならないでしょ?

面倒くさいんだよね~。笑

適当に味付けして、美味しきゃOK!物足りなければさらに加える!それでいい。

世襲してきた感覚料理

この感覚料理は、母ゆずり、もっといえば、祖母ゆずり。

記憶のかぎりでは、母もおばあちゃんも、普段の料理は基本的に計量してませんでしたね。

なかでも記憶にあるのは、年末のこと。

我が家はおせち料理をずっと手作りしてきた家で、いつもは市販のめんつゆで食べるお蕎麦も、年越しそばだけはいろんなダシをとって蕎麦つゆを作ってました。

こどもの頃はまだ、おせちの魅力がわからなかったけど、それでも「伊達巻き」「黒豆煮」「きんぴらごぼう」「お雑煮」は大好きだったし、お酒を飲むようになってからは、おせちのシンプルだけど奥深い、濃いめの味が、なんとも合うこと合うこと。笑

話を戻して。コホンッ

おせち作りは手間暇かかるので、下準備から考えると28日くらいから始まっていた気がします。

だから3~4日間は焼いたり煮たり、何かしらが火にかかっているような状態。

私は、子どもの頃から台所にいるのが大好きだったので、いつもキッチンに立つ母や祖母の周りをウロウロしている子でした。

祖母が若い頃、おせちを作るときは、祖母はコレ、母はコレというように担当メニューがあったりして、祖母が年をとってからは、主に母が作って、祖母が最後に味をキメるという感じでした。

覚えているのは、こまめに味見をする母と祖母。

2人で味見しては、「ちょっと物足りない」「アレ足してみたら?」「もう塩気はいらないね」という会話が聞こえてくる。

そして、そういう「大人っぽい」ことに憧れるお子ちゃまな私も、ちっともわからないクセに味見したがって、「ん~そうだね~」なんて言いながらスプーンを舐めていました。

でも、今思えば、その味見しながら2人の会話を聞く中で、味付けの感覚は教育されていたんだと思う。

完成した味しか知らない私たち

自分で味付けを考えながら料理する醍醐味って「五感を使うこと」にあると思います。

味見をする」=「未完成の味を知る」ってこと。

これって、実は自分で作らない限りできない体験なんですよ。

「はい、できあがり」の手前に、どんな味がするのかを知ること、それがどう変わっていくかを知ることは、自分の味覚の幅を鍛えることにもなる。

たとえばスープを作るとして。

野菜だけ茹でた汁の味見
 ⇒結構ダシが出てるし、うま味が感じられるなあ。甘みがあるなあ。
塩を足してみて、味見
 ⇒味がはっきりしたな。でも薄い塩水っぽいかな。
鶏ガラスープやダシの素などを加えて、味見
 ⇒あ、雰囲気出たな。でも、ちょっと香りがほしいかな?
醤油を少し垂らして、味見
 ⇒これ、好きかも。今日はこんな感じでいっかな。

これを最初から【塩小さじ○○】って書いて分量通りに入れてしまえば、こんな試行錯誤をしなくていいから簡単なんだけど、そうすると、こういう段階を踏んだ味の変化を知ることがなく、出来上がりの味だけを知ることになりますよね。

もちろん、それはかなりありがたいし、失敗して食材を悲しい現実に連れていくこともないから安心なんですけどね~。

やっぱりそれが1番ラクだしね~。

味見は五感のトレーニング

でも、たまに余裕があるときだけでもいいから、「自分で味見しながら料理する」という五感のトレーニングをしてみるのはどうでしょう?

目で色や形の変化を感じて、耳で炒めたり揚げている音の変化を聞いて、鼻で香りを感じながら、手で素材のやわらかさや手触りを確かめて、口で味の変化を楽しむ。

そのうえで、頭で好みの味をイメージして、何をしたらいいか考えながら味を整えていく。

味見しながら料理を作っていくということは、自分の感覚を総動員することです。

この味見体験を、料理のお手伝いをしてくれる子どもと一緒にすると、味覚の幅を広げることにつながると思います。

結局自分の好みになる

結婚してから、レシピを見ることが増えたんですが、それでも分量や工程をきっちりレシピと同じにすることはあんまりないかも。うん、ほぼないな。

ちょっと細かい話になってきちゃうんだけど、同じ「砂糖」や「塩」でも、種類によって味って結構違うものなんですよ。

味噌やお醤油でもメーカーによって違う。

さらに、使う野菜も、季節や産地、鮮度によっても味が変わってきます。

たとえば、みずみずしく水分量の多い春キャベツと、冬を越した身の締まった冬キャベツだと、火にかけた時に出てくる水分の量が変わってきます。

だから、レシピと完全に同じにするって厳密に言えば不可能

「レシピでは【砂糖 大さじ2】って書いているけど、とりあえず大さじ1入れて、足りなそうなら足そうかな」ってこと、よくあります。

「この醤油は味がハッキリしているから、レシピよりちょっと少なめくらいがいいかな」

「レシピにはないけど、好みでゴマ油たらしちゃえ~はっはっは~!うまそ~!」

レシピを見ていたのに、結局最後は自分の味に。でも、これが楽しいんです。

それぞれの味、知ってる?

「そんな細かい味の違いとか求めてねーよ!」って言われると思うんですけど。笑

勘違いしてほしくないので念のため言いますが、レシピ通りに作ることを悪だとかサボりとか思っていないですからね。

なんたって、私が隙あらば常にサボりたいくらい面倒くさがり屋ですから。

ラクするの最高!全然!問題なし!

そのうえで私が言いたいのは「使っている塩やお醤油の味、野菜の味を確かめたことはありますか?」ってこと。

毎日口にしているはずなのに、案外そのものの味を知らないことって多いと思うんです。

なんでその食材・調味料を買うかって、ほとんどの人が値段や知名度、ブランドによると思うんですよ。

で、それらで料理して、実際に口にしているのは「なんとなくいい感じに混ざっている味」だけ。

でも、味見しながら料理することで、「家の調味料なら、案外レシピの量使わなくても美味しいな」とか「レシピよりほんの少しコレを足すだけで好みの味になった!」って発見があると思います。

クックパッドで「野菜炒め」と検索したら、ものすごい量のレシピが出てきますが、よく見てみると、味付けの違い、調理のポイントはそれぞれちょこっとずつ違うんですよね。

弱火で炒めるとか強火が良いとか、塩コショウだけとか、焼き肉のたれを使うとか、醤油は大さじ1だったり小さじ1だけだったり。

でも、全部間違いなく「野菜炒め」の作り方なんですよ。

だから、レシピがいつでも正しい、美味しい、なんてことはなくて、世に出ているレシピも、最終的には作者の好みの味なだけ。

味見を楽しんでみてござれ

リモートや在宅がふえて、外食も自粛のこの頃。

お家で料理する機会が増えたけど、なんか飽きてきたな~という人は、スープだけでもいいので、味見しながら作ってみるのはどうでしょう?

レシピもない、二度と同じものは作れないかもしれない、自分の感覚だけで作った料理。

それこそが自炊の醍醐味で、一期一会の楽しみ。

お店の味を、家で再現しなくたっていいんですから。

そしてそれこそが巷で「おふくろの味」と呼ばれる、特別なものになるのだと思います。

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