祖母が亡くなって、約半年が経った。あれは、突然のような、けれども前から分かっていたような、なんとも不思議な感覚だった。彼女は亡くなるひと月前に99歳を迎え、ついに大台に乗るかどうかというところまで来ていたからだ。
数えで百歳。大往生である。
祖母について書いてみようと思ったのは、亡くなってから1か月後のことだった。
けれど、なんだかしっくりこなくて、書いては保存し、またしばらくしてから書いてみては保存して、の繰り返しだった。
別に、感情が抑えきれないとか、言いたいことが上手く言えないとか、そういったセンチメンタルなものは一切なく、ただ、しっくりこない、これに尽きた。
それがいったいどこから来ていたモノかまでは突き詰めないことにして、とにかく、祖母はどういう人だったのかを、ただ、書いてみることにしました。

もともと食が細い祖母だったので、食欲が落ちて点滴をすることは、ここ数年なんどかあった。
それでも、大きな病気もせず、たまに頭の回路が合わないことがあるくらいで、記憶もしっかりしていたのだからたいしたものだ。
99歳なのだから、まあ、いつお迎えが来てもおかしくないという意味では、その時を覚悟していた。
けれど、99歳まで元気で来たのだから、きっともう一年くらいはいっちゃうだろうと思っていたから、やはりそれは突然だった。
祖母は、働き者だった。
車で30分程度のところに住んでいたので、私は幼いころからよく遊びに行っていたが、彼女がじっと座っていた記憶はない。
人が来れば、それが誰であろうとお茶やお菓子をどんどんだして、台所かどこかとをひっきりなしに行ったり来たり。
座って少し話したかと思えば、すぐ立ち上がってあっちへこっちへ。必死に後ろをついて行っても、常に手を動かして何かしている。
「落ち着きがない」とは違う。むしろ、落ち着きはめちゃくちゃある。
焦るでもなく、ただ手際よく、淡々と、次々と、いろんなことをしているのだ。
祖母は家の近くに自家用の畑を持っていて、せっせと畑仕事をしていた。
急に遊びに行ったときなんかは、頭に手拭いをくるりと巻いて、土のついたエプロン姿でちょっと驚いて、でも嬉しそうに迎えてくれることもあった。
私が自然児だったこともおおいにあるだろうけど、土汚れが付いた祖母を「汚いな」と思った記憶はない。
それはきっと、祖母がもともと持ち合わせていた清潔感や、品のある雰囲気だったのかなと今さら考えてみたりする。
働き者の祖母は、料理も上手だった。
きんぴらごぼうは、こどもたち(私の親兄弟)も孫たちも大好きな一品。
もちろん他にも美味しいものはたくさんあって、個人的には、なかなか地味だけどお正月のお吸い物や、くるみもちが美味しかった。
でも、一番好きだったのは祖母の漬け物。
いろいろな漬け物があった気がするけど、一番は瓜の漬け物かな。
あの頃は、子どもなりに気を遣って少しずつ食べていたけど、本当は瓜の漬け物、お皿にのってるだけ全部食べてしまいたいくらい好きだった。
いまでも瓜の漬け物は大好物。

そんな祖母も、おそらく祖父を亡くしてからは、だんだんと「おばあちゃん」が板についてきて、私が成人するころには、働く手を休めて、こたつに入りながら、のんびり話すことが増えた。
それまで、おばあちゃんちに行くと、ひたすら何か食べているか、年の近いいとこと遊んでいたので、働き者のおばあちゃんと、ゆっくり話す時間はほとんどなかった。
だから、実を言うと、緊張、とはいわないけれど、おばあちゃんと話すって、いったい何を話したらいいんだろう、なにを話したら楽しいんだろう、とか変に考えていた。最初はね。おかしいけど。
でも、祖母だけでなく、全世界のじいちゃんばあちゃんていう生き物は、孫の話なら、どんな話でも楽しいようだということがわかり(笑)、すっかりくだらないことも話して、笑われたり驚かれたり、たまにたしなめられたりした。
そんなやりとりをする時、私は、こたつにゴロ寝したり、丸くなって座ったりしているのだけど、祖母は、いつでも背筋をピンと伸ばして、正座して座っているのだ。
話すときも、テレビを観るときも、みかんを食べているときでさえシャンとしている。
本当に姿勢がよかった。
いまも、こたつに入りながら、背筋を伸ばしてみかんを向く祖母の姿が思い浮かぶ。
祖父が亡くなってからしばらくは、広いうちに一人暮らししていたのだけれど、そのうちに、大騒ぎするほどではないけれど、ぽつぽつと小さな「うっかり」が増えるようになり、だんだんと、コンロの火を消し忘れるような、うっかりで済ませるには心配な出来事が増えていった。
さすがに一人にしておけないけれど、さまざまな事情ときっかけもあり、おばあちゃんは施設に入ることになった。
よく「施設に入れるなんてかわいそう」なんて聞くけど、それは介護をしたことがない人の気楽な発言だと思っている。
私は、自分の親が介護で本当に苦労しているのを一緒に住んでいてよく知っているし、一番の苦労は、介護自体よりも、介護している人に対する、周りの人間の押しつけがましい言動だということも知っている。
でも、同時に、周りの人、すなわち実際に介護していない人になんてわかるわけないなとも思っている。
介護者にしか見せない顔や態度は確かにあるし、それはどうしたって他の人が知れることではないから。
私だって、自分が自宅介護の実情を知らなかったら、のんきに「可哀想」なんて言っていた側の人間だったかもしれない。
実際、どんなに大好きでも、血のつながった家族でも、それは老人に限らず、親や兄弟でも、毎日おなじ屋根の下に暮らしていれば、気に入らないこともむかつくこともあるもんだ。
だからこそ、うまくいかなくて悩むこともあるし、悲しくなることもある。ましてやそれが、なかなか会話が思うようにいかなくなった高齢者ならなおさらもどかしい。
施設に入ってもらうのは、最期まで優しく向き合えるようにするため。そして、最期まで安全に過ごしてもらうため。
この意味が、家族を介護したことがある人ならわかってもらえると思う。
だから、私自身は介護したことがなくても、介護施設があってよかったと心から思うし、運よく入居できたことで本当に助かったと思った。
入所してからは、施設が、祖母の住んでいた家よりも遠くなったことや、私が働き始めたことを理由に、会いに行く頻度はめっきり減ってしまった。
それでも、施設の近くに行ったときや、仕事が早く終わったとき、特に予定がない休みの日は会いに行くようにしていた。
私はまだ、子どもをもったことがない。
この先も恵まれるかはわからないけど、自分の子どもがどんなに可愛いかは、周りの親バカな友人たちを見ているだけで十分伝わる。
でも、それでもなお「孫ってそんなに可愛いもんなの?」と疑いたくなるほどに、祖母は会いに行くと喜んだ。喜んでくれた。
すでに90歳はこえていたので、会話はスムーズにいったり、いかなかったり、同じ会話をグルグル繰り返したり、その時によっていろいろだったけど、いつもいつも「ありがとねぇ、会いに来てくれてありがとねぇ」と言っていた。
本当に心配性で、お昼過ぎに会いに行っても、「暗くなる前に帰りなさい」って早々に返されたこともあったし、「身体は大丈夫?元気?仕事は順調?ごはんは食べてるの?」というやりとりを、一回に何度も何度も繰り返したこともある。
キラキラ光る、綺麗な白髪がフワフワとなびいて、優しく細めた目に、いつも薄いピンク色の唇。90代にしては、すごく綺麗だったな。
おばあちゃんは話しながら、握手のようにして、相手の手を握るのが好きだった。
これは、わたしが小さい時からずっと。
今思えば、あの時代の人で、あんなに人と触れ合おうとするのはめずらしかったんじゃないだろうか。
これは、年をとってもボケ気味になっても変わらず、年々と小さく細くなっていく手だったけれど、相変わらず手を伸ばしてくれた。
握り返すと、ひんやりとしていて、ところが、90代とは思えない力強さで握り返してくる。本当に驚く。
おばあちゃんは、優しく穏やかな顔をしながら、ギュウウウッと手を握ってくるのだ。恐ろしい(笑)。
でも、その力強さが好きだった。
一回握ると、基本的には帰るよというまで離さない(笑)。本当に、そのふれあいを喜んでくれていたのだ。
そして、華奢な身体に合わない力強い手で、「がんばりなさいよ、しっかりしなさいよ」というパワーをくれた。というか、たぶん、本当にそんな思いがこもっていたと思う。本当に、魂がこもっていた。

「おばあちゃんが、危ないかもしれない」
そういうことは、今までに何度かあって、そのたび回復してきたから、まあ覚悟はしているけど、今回は大丈夫でしょうと思っていた。
でも、万が一ということもあるし、実はその一週間前に入籍したタイミングでもあったので、その報告もかねて、夫婦で日曜日に会いに行こうと決めた。
だけど、あと1日待ってもらえず、土曜日の夜に、亡くなっちゃった。
なんだ。
「結婚は?」「いい人いないの?」っていつも気になっていたわりに、おばあちゃん、そこ聞かないで逝っちゃうのかよー。
会わせたかったのに。絶対に、喜んでくれる自信があったのに。
知らせを聞いたとき、正直、悲しいというより、たぶん、いじけてた。「もー!どうして明日まで待ってくれなかったの!」って。
でも、一方で「よかったね、おばあちゃん。」と思ったのは嘘じゃない。
祖母は、晩年、「早く死にたいなあ」と言っていた。
それは、憂鬱なテンションではなく、「もう人生満足だから、ダラダラ生きるのも疲れるしそろそろサクッと終わらせたいな☆彡」っていう感じで。
もちろん長生きはしてほしかったし、私の親や、おじちゃんおばちゃんたちは「そんなこと言うもんじゃない!」「長生きしなきゃ!」って言っていたけど、正直わたしにはおばあちゃんの気持ち、「わかるなあ」と思っていた。
「ああ、いまこの不自由もなく穏やかな日々のなか、子どもや孫たちに見守られて死ねたら人生パーフェクトって言ってもいいかも…」という、明るい理想。
本来、死は残酷でも暗雲たる気持ちになることでもない。
現に、祖母は、大きなけがも病気もないまま、苦しむことなく、子どもたちに見守られて息を引き取った。
99歳で、長いあいだ施設に入っていれば、知り合いも減ってく一方のはずなのに、祖母の葬儀には本当に多くの方が訪れた。
特に、長年住んだ地域の、近所の方が多かった。といっても、もちろんほとんど祖母より若い。なかには、祖母と、親子や孫くらい年が離れているような人もいた。
器用で働き者で優しい人だったので、祖母が地域の人に慕われているのは知っていたのだけど、どうやら祖母は若いころからおばあちゃんになるまで、玄関掃除をしながら、登下校する子供たちによく話しかけていたらしい。
そうか。昔はいたな。名前も知らないけど、いつもニコニコしながら「おはよう」「いってらっしゃい」って声をかけてくれる近所のおばさん。
今ならわかる。毎日ニコニコの笑顔で、挨拶をするって簡単だけどなかなかできることじゃない。
悲しくてツライ日や、クタクタの日だってあるもんね。
でも、うちの祖母も、「いつもあそこで声かけてくれるおばあちゃん」という顔を持っていたのか。
たまにしか遊びに行かない私には、決して知ることができなかった祖母の姿。
なんだよそれ、カッケーな。
結局、穏やかに生きて、家族に見守られて、最期にはたくさんの人にかけつけてもらって、数え年100歳。パーフェクトでしょ。
よかったね、おばあちゃん。ようやく、のんびり休めるね。
私は、祖母の葬儀で、代表して別れの言葉を読むこととなった。
誰もが認める大往生である。祖母にはなにひとつ悔いはないだろう。
だから、いままでの感謝をすべて込めた、悲しみのないものにしようと決めていた。
でも、そんな基本方針を定める必要もないくらい、祖母を思い出すと、彼女は決して賑やかなタイプではないけれど、いつも朗らかで美しかった。暗さなんてどこにもなかった。
だから、私の記憶の祖母はいつも凛としている。潔い。
それを語るだけで、たぶん十分だった。
でも、そのなかに強く思い出される景色がひとつある。
「軒下の柿と大根」
祖母の家の小さな庭に、大きな大きな柿の木があって、毎年秋になると、みんなで集まって柿をとっていた。
子どもたちや女性陣が木の下に大きなブルーシートを広げ、男性陣が脚立やはしごにのぼり、柿を落としていく。
柿はあんまり好きじゃなかったけど、それがとても楽しくて、秋は好きな季節だった。
楽しい柿もぎが終わってしばらくしてから祖母の家に行くと、軒先に朱色に近いオレンジの柿と、真っ白い大根が、カーテンのようにズラッとぶら下がっていた。
それがとにかく美しかった。ただただ、幼い私の目に鮮やかに焼き付いて、今も色褪せないでいる。
こんなにも鮮やかに美しく百年生きた祖母を、私は誇りに思う。
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