きっかけは何だったかはもう覚えていないけれど、ある友人の地元に集まって、私たちと共通の友人たちと、ある友人の地元の友人たちと、まあとにかく男女混合、大勢で集まって騒いだことがあった。
どこでどうなってそこに行きついたかはこれまた全く覚えていないけれど、気づけば夜も明けるころ、わたしたちはほとんど人数が欠けることなく、これまた大勢で近所の公民館に集まって、ヨレヨレのカラダでお酒を飲んだり、味わっているかもわからない様子でおつまみをかじったりしていた。
私も、公民館の重たそうなカーテンの隙間から漏れる朝の光を浴びてヨレヨレになっていた1人だけど、その日も予定があったため、バスや電車が動き始めるころになったら帰ろうと思っていた。
次第にみんな、朝の気配をはっきりと感じ始めると、どこからともなく「腹減った」「なんか食べるの無いの?」という声が聞こえてきた。
オールあるあるだ。
空腹を訴えながらも、誰もその腹を満たすために動き出そうとはしないくらい、公民館からコンビニまではちょっと遠かった。
とはいえ、私もお腹が空いていたし、じんわりと残る酔いもさましたかったので、特に何も言わず散歩がてらコンビニまで歩いていくことにした。
みんな燃えカスになっているような中だ。誰かがフラッといなくなっても気付きはしない。
まだ早い時間なのに、あの頃は夏で、すでに住宅街の向こうには太陽が現れていることが感じられるくらいの明るさだった。
夏の明け方は、それだけでドラマティックだと思う。
ヒンヤリしているのに、どこかまだ夏の夜を引きずっているようなじっとりとした湿り気もあって、一晩中騒いだ肌は、奥のほうがまだ火照っているような気がする。
コンビニにつくと、そこにはすでにスーツや作業着に身を包んだ人たちが、朝ごはんやコーヒーを手に、ちらほらといた。
こんな時、「ああ、この人たちから見ると、私はいかにもお気楽に朝まで遊び倒した学生なんだろう」と実感する。
さっきまでフワフワ、のびのびと歩いていた体がキュッと縮こまる。
別になにも悪いことも恥ずかしいこともしていないのに、いそいそとほしい物を選んだ。
レジに向かう手前、決まって右側にあるおにぎりのコーナー。
「ああ、そうだ、みんなお腹空いていたんだった」
バイトの給料日だったか、なんだったかわからないけれど、私は20個近くのおにぎりを買って、手早くお会計を済ましてコンビニを出た。
学生にしては大奮発だったんだけど、でも、仲間のもとに帰るぞという気持ちにもなれるアイテムだった。
コンビニを出ると、長居したつもりはないのに、さっきよりもだいぶ日が昇り、明るくなっていた。
それからまたお気楽さを取り戻し、来た道を、のんびりと戻っていった。
公民館につくと、酔っぱらいを引きずっていた面々の数人が、眠りに落ちていた。
出た時の騒がしさはどこへやら、いまは数人があちこちに固まって、静かに話したり、笑ったりしている。
ようやく時間を確認すると、ああ、もうバスが出ている時間だった。
思ったよりコンビニ行くので時間がかかったな。帰らなきゃ。
私は、自分の分のおにぎりとお茶を出すと、残りのおにぎりを友人に渡し、「よかったらみんなで食べて」と言って帰ろうとした。
友人は、「え?まじ?ありがとう!いいの、こんなに?」と驚きながらも喜んで、「おーい!〇〇(私)がおにぎり買ってきてくれたぞー!」と声をかけた。
あちらこちらから、やや元気を取り戻したような「ありがとう」が聞こえて、私は「うん、じゃあまたね!」と部屋を出ようとした。
―――その瞬間。
「偽~善者~!」
その大きな声は、明らかに私の背中に向かって、ゆったりとした口調でかけられた。
別に振り向かなくてもわかる、あいつだ。
あの時の自分の顔は、鏡が無くてもわかるくらいうんざりしていたと思う。
でもまあ、一応、振り返り、「え?」と応える。
「お前、こんなことして、偽善じゃん。いい子ぶっちゃって。何やってんの?」
笑うしかなかった。周りの友人たちも、朝の思わぬ展開にピリッとした表情を浮かべている。
ショックだった。何がショックって、偽善者と言われたことじゃない。
その言葉を放った彼は、私にとってとても大切な人だった。
だからって、その人に非難されたことはどうってことない。これまでもよく意見はぶつかってきていたからだ。
ショックだったのは、こんななんてことないことを偽善ととらえた彼の考え方だった。
私は、「あ、そう。それならあなたは食べなくていいよ。」と言い残して、バスに向かった。
.
帰り道、あやうく私は、「私の行為は偽善だったのか?」という考えに持っていかれそうになって、頭を振った。
いや、そんなのどっちだっていいんだよ。
偽善かどうかは、私しか知りようがない。それを誰かが避難しても、へこたれる必要なんてどこにもない。
お腹が空いている人がいて、その人のために食べ物を買った。
それだけが事実で、それが本意だろうと嘘偽りだろうと、問題はない。どこにもない。
少なくとも、なにも行動を起こさず、「偽善者」と口にすることよりは、よっぽど善行だ。
誰かの空腹を満たした。それだけでいいじゃないか。
ならどうして彼は、私にそう言ったんだろう。人の好意を疑ってしまうんだろう。
偽善のおにぎりは、美味しくなかったりするんだろうか。
.
私はいまも、人に何かをする時、される時、そこにちょっと迷いが生まれたら、この日のことを思い出す。
余計なお世話かもしれないし、それこそ偽善者だと思われるかもしれない。
だから、ただ、物事をできるだけ事実として捉えるようにしている。
どんな思惑があるにせよ、事実、私は助かったのか、助けることができるのか。
でも、いつもそう単純に考えられることばかりじゃない。
だから私は一つの方法として、言葉への対処法を身に着けた。
「いい人ぶりやがって」と言われたら、「あ、でもいい人みたいには見えたんだね、ラッキー!」と。
「かわい子ぶるなよ」には「あ、でも可愛いって思ってくれたってことだ!」、「偽善者」には「あ、でもいいことをしたことには変わりないよね?よかった!」のように。
非難を受けた時、必要以上に落ち込むことはないよ。
深刻に悩まなくたって、どっちにしろ言われたことは心に残ってしまうから。
偽善って、そこに悪意があって初めて偽りになるのであって、そうじゃないことにも使われているのを見かけると、「なんもわかってないな。それがあなたの正義のつもり?」と思ってしまう。
偽りでもいい。なんでもいい。いい偽り(嘘)だって、あるじゃんか。
なんなら自分をよく見せようとも思わず、損してまでもいいことをしようと思う人のほうが少ないのでは?
下心わっしょい。プライドわっしょい。背伸びわっしょい。
動機なんてどうでもいいじゃん。誰かのために何か行動をしたなら、そこにはまず価値があるんだから。
「八方美人」「いい子ぶりっこ」「偽善者」
誰かを傷つけるためじゃなく、他人のためにしたことで、こういう言葉を投げられたなら、そのままちゃんとよけてね。
真正面からぶち当たる必要なんてないよ。
非難するなら、自分の行動で対抗して見せよってんでぃ。
p.s.ちなみに私はこの後しばらくして、この「偽善者呼ばわり野郎」と恋人として長いお付き合いをしました。
だから人生って面白いよね~。
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