ま、生きていれば、意見が合わないことなんてしょっちゅうよ。
たとえどんなに仲良くても、どんなに一緒にいても、分かり合えない、理解できないことなんてざらにある。
好きな物を先に食べるか後に食べるか、量より質か質より量か、お金か愛か、嘘か本当か。
コンビニおにぎりが世界一おいしいと思う人もいれば、お母さんのおにぎりが世界一おいしい人もいるわけで。
お店のラーメンは美味しいけれど、カップラのコスパにはかなわないだとか。
細身でスタイルよく憧れられることが美しいか、持って生まれたスタイルすべて美しいと考えるか。
トレンドをキャッチするのがオシャレなのか、自分らしさを持っている方がオシャレなのか。
マヨネーズはキューピー派かピュアセレクト派か。
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結局、完璧に価値観が合う人なんていないじゃんね。いないのよ。
そんでそれが当たり前でしょってみんなわかっているはずなのに、どうしてかそれがうまく通用しない場面が多すぎるように思うんだよね。
たとえば誰かが「AよりBが好き!」って言った時に、
「そういわれたAの気持ちを考えてください」
みたいな絡み方ってめちゃくちゃあるじゃん。よくみるじゃん。
あれ、本当に不毛だなあといつも感じているのだよ。
もちろん、いつもいつも当てはまるわけじゃないし、特定の誰かを傷つけたり攻撃するような意図がある発言は、少なくともソーシャルな場では控えた方がいいと思う。
でも、そうじゃない個人の好みとか、考える必要、ある?
「たらこより焼きたらこが圧倒的に美味しい」とか、そういうレベルのやつよ。
バラエティやSNSで戯れ程度に発信されるような発言よ。
「この世で一番おいしいのはトッポ。」みたいなヤツよ。
ちょっと食べものの例えが多すぎて、食いしん坊が駄々洩れしてしまっているけど、ほらほら、「○○のブランドの服着てる人ダサい」とか。
それにイラッとしている人は、「でもそれってあなたの価値観ですよね?」って言いたくなるじゃん。
そういう時にさ、反撃に出たくなるじゃん。そんなことないし、って。
だからまあ叩かれたり炎上したりするんだろうけど。
そこを素直に「私は○○大好きだし、めっちゃオシャレだと思う!」って方向で発信する人ってあんまり多くないよなあって日々感じている。
「え、それ違くない?」って思ったら、「それは違うと思います」だけじゃなく「私の意見は○○です」まで言える世の中であってほしい。
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よくよく見かける「そういわれた人の気持ち考えてください」みたいな発言する人って、詰まる所、「私の気持ち考えてください」なんだよね。
案外「そういわれた人」に当てはまるような人は、まったく気にしてなかったりするし。
第三者のふりして、結局は自分と意見が合わないから、私は賛同しかねるってことを遠回りに表現しているんだよ。
この回りくどさは、自分の意見を、ただの意見としてフラットにはっきり言えるように教育されてこなかった国民性なんだろうけど。
過剰に反応している時点で、熱くなっているのは自分自身だってことに気付かないと、関係ない人を巻き込んで正義感をブン回す人になっちゃうぞ。
もちろん、自分にもそういう経験があるからそう思うわけで、いまだにこれは自戒でもあるけれどね。
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今度もし「え?この発言ておかしくない?」って感じた時、「おかしい。賛同できない。」だけじゃなく、「なんで賛同できないんだろう?どこが気になるんだろう?私はどう思っているんだろう?」ってところまで考えてみると、これまで見えなかったものが見えるかもね。
少なくとも相手の意見を反射的に乱暴に叩く前に、一呼吸おくことが出来る。
傷ついた、悲しくなった、それはそれで大切にすべき感情だけど、だとしたら、そうならないためにはどういう言い方が出来るのか、自分にはそれを伝えられる術はあるのかを考えていくことで、少しずつむやみに誰かを不快にさせることが減っていくと思うんだよね。
まあ、そんなことを考えながら、しょっちゅう失敗して、反省して、それでも考えていくのが人生の課題でもあるのかなと感じていたりするのです。
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