「無償提供」を美談として受け取れない、へそまがりの心。

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コロナ渦で、多くの企業や多くの団体、多くの人たちが、様々な形で、生活に困っている人や医療従事者のために、物品やサービスを無償提供するという事例を多く目にしてきた。

例えば、コロナで営業が難しくなった飲食店のシェフたちが協力して、医療従事者のためのお弁当を作り、無償提供している等。

本当にすばらしいことだと思う。

自分も苦しいなかで、他者を思いやりながら、次につながる活動を積極的に行っていく姿勢には頭が下がる。

一方で、こういう取り組みを、ただ美談として取り上げているように感じられる報道には、なかなかもやもやしている。

もちろん、話自体は美しいものだし、多くの人に知られるべき活動だと思うのよ!

けれど、本来であれば国にサポートしてほしい、サポートすべき部分まで、人々の無償提供と言う努力によって支えられているんじゃないだろうか。

無償提供している側も、自分たちのビジネスに少なからず影響を受け、通常営業ができない中で何か自分たちに出来る事はないかと模索した結果が、無償提供という形だったという例もある。

節税対策とか売名とか、そーゆーのはとりあえず置いといてね。

誰かが自分の身を削って誰かを助けている。
行為自体は素晴らしいけれど、これが理想にはなってほしくないなという矛盾があったりするのだ。

わかってると思うけど、活動している方々を批判するつもりは1ミリもないのよ!

でも、私たちはこれをただ美しい話として、疑問を持たず受け入れてしまっていいんだろうか。

そういった事実を、素晴らしいことだと感動した先に、
「でもこのままじゃいけない」
「本来はこうあるべきではないよね」
「ならどうすればいいんだろう?」
というところまで、思い及ばせ続けたい。

ただ「すごいね」「えらいね」「立派だね」という言葉だけじゃなく、もっと実のある形で還元するような、何かができないんだろうか?

そんな結論の出せないもやもやを、こねくり回しながら、ただの美談で終わらせまいと、ずっともがいている。

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