「残るもの」から「消えるもの」へ。

SNSの、24時間で消えてしまう投稿に、頻繁に長い言葉をのせる人がいる。

次の投稿に切り替わるまでのほんの数秒では、どんな速読のプロでも読み切れない量の言葉が、画面に、少し中心を外してびっしりと書かれていることが多い。

それは、誰かに向けた言葉でもなければ、不満や愚痴の掃き溜めでもない。

ただ、自分のなかにあるもやもやとした感情のような、思考のような、そのどちらともつかないようなものを、反芻するように書き連ねている感じ。

「ああ、嚙み砕いているんだなあ。」

ダッシュで駆け抜けていく大量の米粒のような文字たちをいちいち拾いあげることはしないけれど、でも、その人が、しようとしていることは感じられる。

うまく言えなくて、でも抱えきれなくて、だけどわざわざ人に言うほどではないようなこと。

それらを読み切れないくらい書き連ねて、数秒で流れては消えていくコンテンツにのせるんだ。

もしかしたら、誰かはこれをちゃんと読んで、反応してくれるんじゃないか。
このなんとも言えない気持ちに寄り添ってくれるんじゃないか。

消え行く長文の投稿からは、そんなひそやかな期待を感じずにはいられなくなる。

それを悪いことだとは思わないし、その、見てほしいような見てほしくないような気持ちの置き場所に、消えることがわかっているコンテンツは相性がいいのだ。

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気持ちの待ち合わせ、みたいなものだろうか。

ケータイが無かった頃、人に会うだけでも一苦労だった。

ちょっとしたタイミングで会えなかったり、何時間も待ちぼうけたり。

会いたいときに会うための手段と言えば、相手がいそうな場所に、いるかもわからないのに、いちかばちかで行くことしかなかった。

会えなくても仕方ない。でも、会えたらそれは運命と信じたくなるくらい嬉しい。

すぐに相手にダイレクトに連絡が取れるのが当たり前の時代だからこそ、不特定多数が見ることができる書いては消える投稿に、そんなものを求めてしまうんだろう。

この言葉が電波に流れている間に、もし、反応してくれる誰かに会えたら。

なんでも後に残ってしまうからこそ、消えるものが愛おしい。

消えるからこそ、その一瞬の出会いに反応したくなる。

時代は、「形に残す」から「消えてしまうもの」に風向きを変えつつあるのかもしれない。

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